丁度、今から1年ちょっと前、わたしは子供との関係が最悪な状態でした。今思えば、育児ノイローゼ気味だったのかも、とも言えるような状態。渦中にいた時は、自分は正常だけど、ちょっとイライラして、ストレスを感じているから、叱りすぎているのだろう、と思っていました。
でも、そう思いつつも、叱り出すと止まらなくなって、執拗に子供を責め立ててしまう自分に、どうしたらいいのだろう、と、出口の見えない憔悴感に囚われていたのです。
もともと、わたしは、躾の厳しい母に育てられて、間違ったことをしてしまうと、なかなか許してもらえない環境に育ちました。中学生くらいまでは、まあ、今でいう虐待に近いようなことも、日常的にあったように記憶しています。
そんな生い立ちの経緯もあり、わたしは結婚してから子供を作って母親になることを躊躇していました。虐待された子供は自分が親になってから自分の子供に、親にされたことを繰り返す、と聞いていたからです。要は自分が育てられたようにしか、自分も子供を育てることはできない、という考え方です。
当初は結婚しても2年くらいはぷらぷらしながら、仕事でも探して、優雅な夫婦生活を送ろう、という密かな計画があったのですが、運命の悪戯というか、天の恵みというか、結婚してすぐに子供ができて、そのまま初めての妊婦生活、初の子育て。
え、、、まだ心の準備できてない、、、と、戸惑う気持ちとは裏腹に、一度スタートを切ってしまったら、もう逃れることのできない流れにのまれていったのでした。
それでも、どうしても自分が母からされたようには、子供を育てたくない、安心して親に甘えることができる環境を作りたい、と望んだわたしは、妊娠中にアダルト・チルドレン関連の本を読みあさったり、自分の生き方、考え方に価値観の近い育児書を探して本屋を回ったり、と、子供を産むにあたっての、自分の腹の括り方を模索し続けました。
アダルト・チルドレンの本は、ああ、親に対してこんな風に思っているのはあたしだけじゃないんだ、という気持ちになれて、そういう意味では気持ちが救われた一面もあったのですが、それでも、どの本を読んでも、根本的な解決方法のようなものはどこにも書いておらず、載っているインフォメーションは、グループワークをしてみよう、という、組織の連絡先ばかり。
妊娠中の身で、そんな活動をする気にもなれず、はぁ、じゃあどうすりゃいいのよ?!と、解決策は結局見失ってしまったような気持ちになりました。でも、その時感じたのは、
「あたしはこの、アダルト・チルドレン症候群の一員かもしれない、今は
すぐに解決できることではないかもしれないけど、自分には常に、
何かに依存してしまう危険性があることだけは、しっかりと
自覚しておこう」
という、祈りにも似た、強い思いでした。
アダルト・チルドレン関連の本を読みながら、もう一方で読み出したのが、”ホワイト博士の育児書”という、育児関連の本でした。これは、子供を機嫌良く、大人と一緒にいても楽しく過ごせる子供に育てる、というのが最大の狙いの本でした。
何より惹かれたのは叩かずに子供を乗ずに躾ることができる、という躾の方法が詳しく書かれていたことです。
親の立場で、これは絶対譲れない、というラインを超えて、子供が何か困ることをしたら、その成長段階に合わせて、子供がやられて嫌がることを上手に利用して、悪いことをしたら、こういうイヤな目に合うよ、割に合わないから止めなさい、というメッセージを送るのです。
嫌がること、といっても、例えば、何か悪戯をしたら、はいはいをし出す頃の赤ちゃんだったら、身動きを制限されるのを何より嫌がるから子供がじれて本当に嫌がるまで、床に座らせて、肩を押さえて、動かないようにする、とか
もう少し知恵がついてきたら、今度は子供のその時々のお気に入りのモノをリスト・アップしておいて、悪癖が直るまで、悪戯をしたら、そのお気に入りものもを、手の届かないところに閉まってしまう、とか、そういう程度のことです。
それでも、子供のことをよく研究してある本で、家の子にはなかなか効果的でした。わたし自身も、強く叱りすぎたり、叩いたりしなくて済む分、叩いて叱るといった手っ取り早さはないけれど、ちょっと我慢してその方法に乗っ取って躾していくだけなので、随分と気を楽に持つことができました。
その本のお陰かどうか、とにかくぴよこは、本当に大人といても機嫌良く、一緒にいるのが楽しい人として仲間意識を持てる子に育ちました。もちろん、ちびなりに、その時々で必然的に迎えていくべき反抗期などはありましたけど(笑